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2009年4月5日日曜日

工学的な脳科学観・医学観

By a sort of comic and awful analogy, our current cognitive neurology and psychology resemble nothing so much as poor Dr P.! We need the concrete and real, as he did; and we fail to see this, as he failed to see it. Our cognitive sciences are themselves suffering from an agnosia essentially similar to Dr P.'s. Dr P. may therefore serve as a warning and parable--of what happens to a science which eschews the judgmental, the particular, the personal, and becomes entirely abstract and computational.
-----Oliver Sacks "The Man who Mistook his Wife for a Hat and Other Clinical Tales

理性主義はすべての分解産物を独立とみるが、実をいうとそうとは限らない。生き物なんていうのは往々にして、もっとグチャグチャに混ざったものである。医学には特に、ある疾患の「患者像」みたいな総体を大切にする伝統があったはずである。でもいまや、診断所見のOdds比などが、流行っていたりする。独立でない事象のOdds比をいくら掛け合わせても確度が高まるとは限らないのに。

脳という一番グチャグチャの臓器を相手にしている神経内科・精神科などには、まだ、この全体観を大切にする流れがかろうじて残っているのかもしれない。

2009年3月28日土曜日

疫学は難しい

今日はDiGeorge症候群についてちょっと勉強していたのだが、疾患のpresentationが多様なので、人口あたり1/6000とか、そういう数字はどの程度信頼してよいものなのだろうか。あと、50-80%は心臓の臓器形成異常があるというのだが、その数字にしたって、心臓がおかしいと堕胎とか、顕在性の奇形が軽い場合は診断前の死亡もきっと増えるので、この数字にしたって、解釈は難しい。

2009年3月22日日曜日

卵巣ガンと保険適用

一昨日は産婦人科の学生向けの特別講義で、地元の卵巣ガン患者団体のおばさんたちが3人、話をしにきた。いろいろな病院・医学部・一般人向けのセミナーを通して、卵巣ガンの初期症状(腹部の鼓張、膨満、尿意切迫・頻尿、食欲減退・満腹感、腹部・骨盤部の痛み)について教育して回っているのだそうだ。そして、それぞれ自分の診断にいたった経過を話してくださった。



あるおばさんは、理想的な診断だったという。症状を呈して医者にいったら、すぐに放射線科で検査を受けて、治療も2週間以内に開始できたという(このおばさんは連邦政府職員というから、まともな健康保険なのではあるが)。



もう一人のおばさんは、2年以上にもわたって家庭医に無視され続けて、ついにしびれを切らせて専門家にいったら、全身に転移したステージ4だったという。卵巣ガンなどと相関のあるCA-125という糖蛋白マーカーがあるのだが、診断時にはそれが正常値の50倍以上であったという。「私、インターネットで症状を調べていたんです。それで何度、家庭医にCA-125を測定してください、ってお願いしたことでしょう。でも、必要ない、きっとただの逆流症状ですよ、と無視され続けたんですわ。あなたたちは、患者のいうことにもうちょっと耳を傾けるようにしてくださいね。」

このおばさんがわかっていないのは、「CA-125は卵巣ガンのスクリーニングには有効でない」という「エビデンス」が存在していて、それを根拠にたいていの保険屋は、スクリーニング目的ではこの検査に全く支払いがない、ということなのだ。つまり、家庭医の医院でもしもこの患者にCA-125検査を行っていたら、家庭医には一銭も検査費が戻ってこない、つまり、医院にとっては完全なる赤字検査である、ということである。症状がどうであれ、保険屋には関係ない。たとえ検査結果がHH(very high,とても陽性)で、その後卵巣ガンであることが判明したとしても、保険屋には関係ない、100%医院持ちということになる。



つまり、「エビデンス」というのは聞こえはいいし、重要な概念ではあるが、同時に、保険屋のコストカットの手段という側面がぬぐえないのである。一線で「エビデンス」を蓄積している臨床家たちはもちろん、患者のためを思ってやっている。だが同時に、<evidence-based medicineという概念が唱えられ出したのは、アメリカにおいて健康保険が完全資本主義式に転換しつつあった時期と重なっている>という事実も、否めないのだ。

現場で「エビデンス」は、個々人のプロフェショナルとしての判断を奪う手段として、用いられかねないのだ。料理人と、マクドナルドのバイトとの間の距離は、かくして、狭まる。

2009年3月12日木曜日

I have a feeling...

朝のカンファ。

教授 「この患者さん、○○の治験にちょうどいいんじゃないかしら」
レジデント 「I have a feeling she's really not going to agree to be in any studies...」
一同 「(笑)」

難しい患者は(つまり対応の難しい患者は)、臨床の治験などに含まれる可能性はより低いに決まっている。いくら大教授がどうおっしゃっても、難しい患者は難しい患者、現実に施行するレジデントは日常に追い回されているわけで、必ずしもunbiasedな研究者ではない。ここにもまたひとつ、臨床研究の落とし穴がある気がする。

エビデンス、エビデンスと呪文のように唱えれば何でも治ると思っている節のあるレジデントも見かけたりするが、trialのエビデンスは実験科学者の目から見ると、あまりに多くの交絡因子(有形・無形ふくめ)があって、科学的ではない感がぬぐえない。そうすると、エビデンスもよいが、「臨床的なカン」みたいなのによるevidenceも、馬鹿にはならないということだろう。

2008年9月20日土曜日

科学と医学

ずっと考えていることだが、試験勉強をしながらいろいろ考えた結果、基礎研究と医学の根源的な相違点が、少しはっきりした気がする。



極端に煎じ詰めると、科学というのは、結果は実をいうとどうでもよいのである。もちろん、生物やら物質やらの真理についてわかった気がするのは大変結構なことだが、それが本質的な目標ではない。ことの本質は逆に、「分からない」という状態と、その状態への対処法なのである。

たとえば、「視覚野の細胞はこれこれしかじかの刺激を受けると、これこれしかじかの反応をする」といったstatement自体は、実をいうと生理学の本質ではない。というのも、このstatementは実に多くの前提を含んでいるのだ。たとえば、どの動物種・亜種・個体を用いたか、麻酔下であるか、麻酔の有無にかかわらず記録時の睡眠サイクル、与えた刺激の詳細、刺激した際の瞳孔の状態、体温、性別、月経周期、ストレス反応などなど。あるいは、電極の種類や電極を刺す方向によっても、見つかる細胞種や記録される信号には、いろいろなバイアスがかかってくる。たとえば、「視覚野の神経細胞」と電気生理学者が言った場合は通常、大きめの錐体細胞のうち、記録条件下である程度の自発発火を有するものを指す。電極を単に刺していって探すと、そういう細胞が圧倒的に多く、捕まるからである。

この「いろいろ複雑な条件がありすぎてよくわからない」という状態への対処法が、科学の本質であろう。場合によっては実験計画を工夫することによって、あるいは場合によっては実験条件によらない因子を使っていろいろな単純かを試みつつ、仮構たるストーリーを構成する営みこそが、科学なのである。抗癌薬が発見されたり、そういうのは、ラッキーで実用的ではあっても、科学の本質ではない。



また極端に煎じ詰めると、医学というのは、結果以外は実をいうとどうでもよいのである。もちろん、生理学や薬理学の原理にかなった考え方をした方が、完全なる出鱈目よりも結果につながりやすいことは間違いないのだろうけれども、仮に仕組みはよくわからないけれどもある状況下で「治る」薬があれば、仕組みは二の次なのである。極端な例、精神科の薬なんて、大局的にみればすべてこの部類である。個体レベルで総括的に仕組みの説明できる向精神薬など、一つもないのだ。それだって、治るものは治るので、それはそれでよい。

精神科に限った話では、決してない。たとえば、アメリカ東部の郊外白人男性を対象とした心臓病研究が、どれほど、日本女性に適応できるかは、実をいうと、注意深い吟味の対象たるべきなのである。でも、それは、「研究が足りない。だから日本女性を対象とした同様の治験もしよう。」という短絡思考でおさまる問題ではない。人間が研究室のラットたちのように均質ではないところに、その問題の根源があるわけで(近親交配ラットだって多様な面もあるのだが)、まして気の遠くなるほど交絡因子を有するヒト個人を対象とする限り、根本からいうと、頭でっかちの単純化をとおして解消できる問題では、決してないのだ。100万人を対象に治験を行っても、100万と1人目の人も、治療しなくてはならない。



仮に試験でたとえれば、A-Eのうち、「もっとも適切と考えられるものを選べ」というのが医学、かならず一つの真理に到達しなければならない。一方、「A-Eのそれぞれの真偽について多角的に検討せよ」というのが科学なのだろう、真理が一様であるとは限らない。

手元にあるエビデンスに照らし続けるにせよ、「最終的に何をするのかという決断」、つまり見切り発車こそが、医学の本質である。ところが、いろいろなエビデンスをいつまでも集め続けて、「ああでもないこうでもない」と結論を引き延ばすことこそ、科学の本質である。



ある研究医の中国人友人は、中国では、医者を大工に喩えるのだという。その状況その状況で、もっとも適切な棚なら棚を時間内にこしらえるのが、その職人技。もちろん棚の出来不出来は腕により異なるが、使える棚ができることが、一番の要請である。

そのたとえでいけば、科学はもっと前衛芸術のようなものなのであろう。使えるものができるかどうかは、はっきり言って、どうでもよいのだ。いつになったら完成するのかわからないそのオブジェの全体像が、人間の美感にかなっていることこそ、重要である。