2008年9月20日土曜日

科学と医学

ずっと考えていることだが、試験勉強をしながらいろいろ考えた結果、基礎研究と医学の根源的な相違点が、少しはっきりした気がする。



極端に煎じ詰めると、科学というのは、結果は実をいうとどうでもよいのである。もちろん、生物やら物質やらの真理についてわかった気がするのは大変結構なことだが、それが本質的な目標ではない。ことの本質は逆に、「分からない」という状態と、その状態への対処法なのである。

たとえば、「視覚野の細胞はこれこれしかじかの刺激を受けると、これこれしかじかの反応をする」といったstatement自体は、実をいうと生理学の本質ではない。というのも、このstatementは実に多くの前提を含んでいるのだ。たとえば、どの動物種・亜種・個体を用いたか、麻酔下であるか、麻酔の有無にかかわらず記録時の睡眠サイクル、与えた刺激の詳細、刺激した際の瞳孔の状態、体温、性別、月経周期、ストレス反応などなど。あるいは、電極の種類や電極を刺す方向によっても、見つかる細胞種や記録される信号には、いろいろなバイアスがかかってくる。たとえば、「視覚野の神経細胞」と電気生理学者が言った場合は通常、大きめの錐体細胞のうち、記録条件下である程度の自発発火を有するものを指す。電極を単に刺していって探すと、そういう細胞が圧倒的に多く、捕まるからである。

この「いろいろ複雑な条件がありすぎてよくわからない」という状態への対処法が、科学の本質であろう。場合によっては実験計画を工夫することによって、あるいは場合によっては実験条件によらない因子を使っていろいろな単純かを試みつつ、仮構たるストーリーを構成する営みこそが、科学なのである。抗癌薬が発見されたり、そういうのは、ラッキーで実用的ではあっても、科学の本質ではない。



また極端に煎じ詰めると、医学というのは、結果以外は実をいうとどうでもよいのである。もちろん、生理学や薬理学の原理にかなった考え方をした方が、完全なる出鱈目よりも結果につながりやすいことは間違いないのだろうけれども、仮に仕組みはよくわからないけれどもある状況下で「治る」薬があれば、仕組みは二の次なのである。極端な例、精神科の薬なんて、大局的にみればすべてこの部類である。個体レベルで総括的に仕組みの説明できる向精神薬など、一つもないのだ。それだって、治るものは治るので、それはそれでよい。

精神科に限った話では、決してない。たとえば、アメリカ東部の郊外白人男性を対象とした心臓病研究が、どれほど、日本女性に適応できるかは、実をいうと、注意深い吟味の対象たるべきなのである。でも、それは、「研究が足りない。だから日本女性を対象とした同様の治験もしよう。」という短絡思考でおさまる問題ではない。人間が研究室のラットたちのように均質ではないところに、その問題の根源があるわけで(近親交配ラットだって多様な面もあるのだが)、まして気の遠くなるほど交絡因子を有するヒト個人を対象とする限り、根本からいうと、頭でっかちの単純化をとおして解消できる問題では、決してないのだ。100万人を対象に治験を行っても、100万と1人目の人も、治療しなくてはならない。



仮に試験でたとえれば、A-Eのうち、「もっとも適切と考えられるものを選べ」というのが医学、かならず一つの真理に到達しなければならない。一方、「A-Eのそれぞれの真偽について多角的に検討せよ」というのが科学なのだろう、真理が一様であるとは限らない。

手元にあるエビデンスに照らし続けるにせよ、「最終的に何をするのかという決断」、つまり見切り発車こそが、医学の本質である。ところが、いろいろなエビデンスをいつまでも集め続けて、「ああでもないこうでもない」と結論を引き延ばすことこそ、科学の本質である。



ある研究医の中国人友人は、中国では、医者を大工に喩えるのだという。その状況その状況で、もっとも適切な棚なら棚を時間内にこしらえるのが、その職人技。もちろん棚の出来不出来は腕により異なるが、使える棚ができることが、一番の要請である。

そのたとえでいけば、科学はもっと前衛芸術のようなものなのであろう。使えるものができるかどうかは、はっきり言って、どうでもよいのだ。いつになったら完成するのかわからないそのオブジェの全体像が、人間の美感にかなっていることこそ、重要である。

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